梅雨空の7月6日、産業観光ガイド“ひたりずむの会” で中津江方面に出掛け、宮園神社、鯛生金山、帰路に力峰彫刻の工場を見てきました。
杉の大木に会ってきました 宮園津江神社(日田市中津江村丸蔵地区)
ひたりずむのパンフレットに登場する宮園神社の杉。どのくらいの大きさなのか実物を見に行きました。鳥居の近くにある参道脇の杉は、数人で手をつないでも届きそうにない幹回り、40メートル以上はある樹高、立派な枝張り、その姿はまさに威風堂々。今から530年前の延徳3年(1491年)、日田地方で初めて杉が植えられたのが宮園神社境内と言われています。
うっそうとした神社の森を形作っていた30本の杉の大木は、最も大きな木で幹回り6.75メートル、樹高51.5メートルもありましたが、平成3年9月の台風19号の強風で大半が倒れ、社殿、楼門などを壊し、現在は6本しか参道脇に残っていません。日田市友田にある日田杉資料館には、倒れた杉の1本が展示されており、長さ13メートル、直径88センチの宮園杉が静かに横たわっています。
参道の入り口の杉
写真奥にある杉は参道入り口の杉
大分福岡両県にまたがる大金山 鯛生金山(日田市中津江村鯛生地区)
明治27年(1894年)、今から127年前、日田市中津江村鯛生の山中で行商人が拾った石(金鉱石)が、かつて東洋一の産金量を誇ったといわれる鯛生金山の歴史の始まりとなります。
明治30年頃から手掘りによる金の採掘がはじまり、大正時代になると英国人の経営に移り、機械化による採掘で一気に産金量が増加していきます。その後も産金量は増え昭和12年には国内トップとなり東洋一の隆盛を極めます。太平洋戦争により採掘は休止となり、昭和31年から本格採掘が再開したものの、金鉱脈の枯渇により昭和47年(1972年)閉山となります。
約80年間で掘った金の産出量は、約37トンで菱刈、佐渡、鴻之舞、串木野に次ぐ国内5位、掘り進んだ坑道の長さは約110キロ、操業時は、中津江村の鯛生坑口と福岡県矢部村の坑口は車で通りぬけが可能でした。
現在は、地底博物館鯛生金山(1983年開館)となり、2007年には近代化産業遺跡(経産省)に指定されました。
地底博物館の駐車場の脇に、金山で殉職された方々の慰霊碑(作:北村西望)があります。暗く危険な採掘現場で、金鉱脈に発破用の穴を掘り進む作業員の様子など、3枚の銅板に往時の様子が刻まれています。
山深い中津江村鯛生に忽然と湧いたゴールドラッシュ。多くの鉱山関係者が往来し、賑わっていた鯛生集落は、今は金山発見前のひっそりとした山村に戻っています。
匠の技が木を彫る 力峰彫刻(日田市高瀬)
神社仏閣の建物の装飾彫刻を製作している力峰彫刻。先代が今から55年前に力峰彫刻を構え、2代目の森さんが工場の案内をしてくれました。
現在、平成28年熊本地震で倒壊した阿蘇神社楼門(国重要文化財指定)の修復に携わっており、被害にあった彫刻と全く同じ彫刻を彫る作業をしていました。楼門の彫刻の実物を和紙に写し取り、欅の板に形を映しながらノミで彫っていきます。実物を見ながら、曲線や膨らみ、彫る深さなど細かな作業を繰り返します。この精巧な技術を可能にするのはノミ。台上に大小様々な30数本のノミが置いてあり、「すごいノミの数ですが?」と森さんに尋ねると「本数ははっきり数えたことないですが、どのノミが必要かはすぐ分かります。そっちの収納箱にもたくさん入ってますよ。」横に置いてある5段の収納箱を引き出すと、ノミ、ノミ、ノミ・・・。百本以上のノミを駆使して作り上げられた彫刻は、この後楼門に取り付けられます。文化庁によると、楼門は1849年に建立され、「楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。」とあります。楼門の再建が完成するのはしばらく先になるそうですが、一彫り一彫り刻んだ力峰彫刻の技が形となり、神社で来訪者を迎えることになります。