産業観光ガイド“ひたりずむの会”で 現地研修に出掛けてきました。(その1)

梅雨空の7月6日、産業観光ガイド“ひたりずむの会” で中津江方面に出掛け、松原ダム、下筌(しもうけ)ダムを見てきました。

 

ダム建設
日田市には、国土交通省が管理する松原ダム、下筌(しもうけ)ダムと、水資源機構が管理する大山ダムがあり、洪水調整などの治水、河川の維持用水・発電用水・水道用水・農業用水・工業用水などの利水の役割を担っています。
昭和28年の西日本水害で筑後川流域も甚大な被害を受けました。その後、当時の建設省は多目的ダムによる洪水調整を図るため、筑後川上流に松原ダム、下筌ダムを建設する「筑後川水系治水基本計画」を策定しました。

 

下筌ダム

下筌ダムは、日田市中津江村と熊本県小国町の県境を流れる筑後川上流の津江川をせき止めたアーチ式コンクリートダムで、昭和48年に完成した高さ98m、堤頂長248.2mの曲線がきれいなダムです。ダムの右岸側(小国町側)にある下筌ダム管理支所前の「下筌ダム」名板の文字は、室原知幸氏が書いた「下筌ダムダム反対」の看板から写し取ったものでした。
ダム本体を見た後、ダム左岸側(中津江村側)にあるダム資料館「しもうけ館」に移動し、下筌ダム管理支所 長田支所長さんからダムの役割、洪水調節などの説明を受けました。特に昨年7月の令和2年7月豪雨では、昭和48年のダム完成後初めて「緊急放流(異常洪水時防災操作)」を実施し、7月7日・8日にクレストゲート(非常用洪水吐き)から放流し、下流の松原ダムと連動した洪水調整を行い、下流域の被害を軽減したそうです。

 

蜂の巣城闘争
続いて、蜂の巣城闘争の記録映像を鑑賞。室原知幸さんのダム建設反対闘争は、建設予定地での蜂の巣城(反対派の砦)の建設、代執行への抵抗、そして法廷での闘争など、昭和32年のダム計画地元説明会に端を発し、室原さんの死去(昭和45年6月)、遺族との和解(同年10月)により13年間の闘争は終わります。室原さんが闘争で言い続けてきた「公共事業は、理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない」は、以後の国のダム建設に大きな影響を与えていきます。
ダム下流域で暮らすひたりずむ会員からは、「こんな出来事が上流であったことすら知らなかった。」「蜂の巣城闘争は聞いたことがあったが、詳しく知ることができた。」「梅雨の大雨の時、安心して寝ていられるのもダムの恩恵であり、墳墓の地を追われることになった水没者への感謝を忘れてはならない。」との感想が出ていました。
小さな山村で起きた国を揺るがす大きな出来事の真実を知ることができました。

 

下筌ダム(梅雨時期は大幅に貯水量を減らしています。)

 

アーチ式コンクリートダム(堤頂部中央がクレストゲート、本体中央部がコンジットゲート)

 

下筌ダムの名板

 

しもうけ館(蜂の巣城闘争の資料が展示されています。)

 

蜂の巣城(昭和39年代執行前の砦)

 

松原ダム(重力式コンクリートダム 高さ83m 堤頂長192.0m)