産業観光ガイド“ひたりずむの会”で 筏流しと鵜飼の話を聞きに行きました。 【筏流し編】

 “ひたりずむの会”ではこれまで、産業観光受入施設の見学のほか、森林伐採現場に出掛けたり、日田の歴史を知るため宮園神社や下筌・松原・大山のダムなどを現地見学してきました。

 7月16日は、川に関する歴史を知るなかで、「筏流し」と「鵜飼」について、話を聞きに行きました。

 

筏流し(いかだながし)

 「筏流し」と聞くと、“杉を筏に組んで筑後川下流の大川市付近まで流し運んでいた。”というのが一般的な説であり、参加したガイド全員がそう思っていました。

 今回「筏流し」のお話をお願いしたのは、佐藤重利さん。佐藤さんは子どもの頃から家の仕事の手伝いで筏に乗っていました。

「今じゃ、筏に乗っちょったこつがある人は数人しかおらんごつなった。筏ち言うたら、材木を流しょったち誰でん思ちょるけど、ほんなこつは「竹材」を筏に組んで始めは流しょったつばい。竹は下流にある筑後の造り酒屋とか味噌醤油屋の樽の輪締めに使よったなき、それが筏流しの始まりて。」

佐藤さんの流暢な日田弁のお話しに聞き入る中で、筏流しの始まりは竹材運搬の竹筏であったことに一同驚いていました。

「筏に乗って下流までいった筏乗りはどのようにして日田まで帰ってきていたんですか?」の問いに、「日田を出るときゃ4つの筏が、下流で2つを繋いで2つの筏にして、そっから下流でまたつないで1つの筏にしよったなき、筏乗りはつなぎ替えするとこで筏を降りてから、バスとか筑後軌道で舵板だけ持って日田まで帰りょった。」

日田の「筏流し」は、今から330年ほど前、最初は竹材の運搬から始まった筏流しは1750年頃から杉材の運搬が盛んになり、明治16年(1883年)には延べ4千の筏が組まれ、大正5年(1908年)には203人の筏乗りがいたという記録があります。筏の出発地だった現在の温泉旅館街の三隈川では筏を組む人達の威勢の良い掛け声で賑わっていたことでしょう。しかし、筏流しは昭和28年(1953年)大分福岡県境の夜明ダム建設によりその長い歴史を閉じることになりました。

現在木材は、大型トラックに積まれ当たり前のように市内を行き来していますが、昔は、日田の豊富な水を利用した「筏流し」により竹・材木を運ぶという「先人達の知恵」に気づかされるお話でした。

 

 

中央で帽子を着用している方が、佐藤重利さん。
島内休憩所には、筏流しのほか貴重な史料が保存されていました。
日田の先哲「平野五岳」翁の筏流しの絵  
制作年は、絵に“戊寅”と記してあることから、明治11年、翁70歳当時の作品とわかる。
筏を詠んだ 野口雨情の詩

難所 大明神岩の急流を下る筏(昭和5年頃) 筏の前に舵が付いている。
川に浮かぶ杉丸太を詠んだ日田三俳人のひとり井上柿(し)巷(こう)の句

筏を組む前に三隈川に集められた杉丸太(現在の温泉旅館街付近)